アースデイの構想提案及び集会開催者はゲイロード・ネルソン氏(当時、ウィスコンシン州上院議員)で、1969年のカリフォルニア州サンタバーバラにおける油流出事故を経験しています。
彼は学生の反戦デモに啓発され、その力を「大気・水質汚染問題」を意識させるために国民に投入すれば、環境保護の議題を強制的に国の政治課題に組み入れることができると考えました。
尼爾森參ネルソン上院議員は国中のマスコミに「全国環境討論会」の構想を発表しました。共同司会者を務めてもらうためにピート・マクロスキー氏(当時、保守派共和党下院議員)を説得すると共に、デニス・ヘイズ氏を全国統括役として選出しました。ヘイズ氏は85人でチームを成立し、全国各地で活動を進めました。
その結果、4月22日にアメリカ東西海岸にわたり、2,000万人が健康な環境維持のために街頭や公園、体育館で大規模な全国デモを起こしました。そして数千の大学が環境悪化に対する抗議デモ活動を行いましました。
多くの環境保護団体は長期にわたり、石油漏れ、汚染の原因を作っている工場や発電所、廃水、有毒廃棄物、殺虫剤、高速道路開発などによって起こる荒野の消失や野生動物の絶滅などの問題に対して抗議してきていました。彼らはこれを機に、お互いの団体が共通の価値観を持っていることに初めて気づきました。
1970年のアースデイでは異例の政治同盟が設立され、共和党と民主党、富豪と貧困者、都会の人と地方の人、資産家と労働者など、各階級の人々の支持を得ました。
第1回アースデイでは「アメリカ合衆国環境保護庁」が成立し、『大気清浄法』『水質清浄法』『絶滅危惧種保護法』が制定されました。
1990年前夜、環境保護団体のリーダーたちは共同でヘイズ氏に大規模イベントの開催を要求しました。
最初のアースデイは世界レベルにまで進み、144カ国、約2億人を動員し、環境保護の議題を世界の舞台に上げたのでした。
1990年のアースデイでは世界各地で資源回収運動が大きく伝えられ、1992年、「国連環境開発会議」(地球サミット)がブラジル・リオデジャネイロで開催されるきっかけになりました。
更に1995年、アメリカのクリントン大統領はアースデイ開催に感謝し、ネルソン議員にアメリカ国民にとって最高の栄誉である「大統領自由勲章」を授与しました。
2000年には、ヘイズ氏はもう一つの運動を計画し、今回は地球温暖化とグリーンエネルギーに焦点を当てました。
今回のアースデイでは、世界184カ国、5,000の環境保護団体と数億人が参加しました。
2000年のアースデイでは1970年の第1回アースデイの事業を更に発展させることを決意すると共に、1990年の国際草の根運動の観念とを結びつけました。当時、最新技術であったインターネットを利用し、世界各地の活動家と連絡を取り合っただけでなく、アフリカのガボンでは伝統的な打楽器による通信方法で村から村へ情報を伝えました。その日、ワシントンD.Cのナショナル・モールには数千万の人々が集まりました。
2000年アースデイでは、世界の人々が各界の指導者に、急速なグリーンエネルギー開発の断行を要求するメーセージをはっきりと伝えました。
資料元:The History of Earth Day | Earth Day Network